「いい人」恐るべしという記事を書いちゃったおかげで、「自分のことは書かなくていいの?」という声が、自分の内部から聞こえてきます。微かですけれどね。
僕の中にもまだ少しだけ、「いい人」だと思われたい症候群が残っているのですね。

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黒猫パンチャーさんが寄せてくださったコメントの中に

「いい人」=「構われたがり」=「寂しがり屋」=「愛が欲しいだけ」

というのがありまして、この等式(僕もほぼ同意します)を借りて、ちょっと昔の自分について書いてみます。

「いい人」=昔の「いい人」だと思われたい症候群全開だったころのもりおん、ということで始めます。

まず、心の中には、「自分はこんなに『いい人』なのに、どうしてまわりは理解してくれないんだろう。それどころか、まるで自分が『悪い人』であるかのごとく、批判されたり非難を浴びせられる。あぁ自分はなんてかわいそうなんだろう」というのがありましたね。自己憐憫ってやつっすかね。<笑>

自己憐憫状態にあると、底知れぬ「寂しさ」に付きまとわれるわけです。

去年の夏でしたか、「自己憐憫」の世界に住む人は、「自己憐憫」の原因となる現象を、さらに引き寄せる、というメッセージ(どなたか忘れました)を読んで、「自己憐憫」の世界からは脱却しました。

まず、大前提となることなんですが、「いい人」だと思われたい症候群の人は、「自分」=「いい人」だと思い込んでいるのですが、そもそも「いい人」かどうかを決めるのは、誰でしょう?

そうです、一般的にそれは「まわりの人」です。そしてその評価は、もりおんがその人にとってどんな人に見えるのか、ということだけなのです。たったそれだけ。
はっきり言って本当は、自分が「いい人」である必要は全くない。
「自分」=「自分」でいいのです。

自分が「いい人」だと思っていたもりおんは、例えば、飛び込みでやってきたコピー機の営業さんに、何故か「いい人」だと思って欲しくなってしまうのですね。それで、まだリースが半分も残っているのに、なんじゃかんじゃと自分を納得させる理屈を作って、コピー機を借り換えてしまうのです。結局残ったのは、普通に借りる金額の倍ぐらい、月々口座から引き落としが掛かる状況。(たった3人の営業さんに「いい人」だと思って欲しいと思った結果がこれです。<大汗>)

自分のことを「いい人」だと思い込んでいると、初対面の人と会ったときに、その人に自分のことを「いい人」だと思って欲しくなります。だってもう知ってる人の「自分に対する評価」は、だいたい分かっていますからね。自分のことを「いい人」だと思ってくれる人を増やして、自分の評価を高めたいわけです。初対面の人は自分のことを「いい人」だと思ってくれる可能性がありますから、そういう人に「構ってほしい」わけです。営業さんにとっては、いいカモですね。

う~ん、たぶん大元をさぐれば、それはまだ小さな子供だったときに、「愛が欲しければ『いい子』にしていればいい。」と、エゴが学んだのでしょうね。
そしてそれ以来、まわりの迷惑を顧みず(だって、大迷惑ですよね)、ひたすら「いい人」になるための修行に励み、それだけ励んだのだからという根拠で、自分は「いい人」なのだと思い込み、その成れの果てが、「自分はこんなに『いい人』なのに、どうしてまわりは理解してくれないんだろう。それどころか、まるで自分が『悪い人』であるかのごとく、批判されたり非難を浴びせられる。あぁ自分はなんてかわいそうなんだろう」という想いを抱えた、「構われたがり」で「寂しがり屋」で「愛が欲しい」大人となるのですね。

ということはです、「いい人」だと思われたい症候群の治療は、自分がそうだということを認めて、治療する気になりさえすれば、とてもシンプルで簡単なわけです。(それは次回にでも。)


みなさんに愛と光を!( もりおん )