「愛と光」と、たま~に毒舌


大雑把にいえば、もりおん(ちなみに男性)の、アセンション日記です。

3次元にしっかり足をつけ、ガイアの上での日常を楽しみつつ、 高次元とどう繋がり、どう生きてゆくのかということを、書きます。

聖人君子ではないですから、時々毒舌が混じります。

カテゴリ: フォーカス

様々なチャネリング情報や、いろんな記事を読んだことによる、出典不明の、悪く言えば受け売りなのです。

そう、自分の中では、消化吸収ぐらいはできたけれど、まだ少ししか実践していないから。

でも、効果は抜群。
なので問題は、実践を続けるために、マインドとどう折り合いをつけるか、ってことに集約される。

あっ、いま、「問題は」って書きましたけれど、これも実は問題。 (^^;;

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前置きが長くなりました。 (^^;;

端的に書けば、
フォーカスしたものにエネルギーが向かう。そして、今年になって、さらに最近になって、その向かい方が半端じゃなくなっている。
ということです。

これを、僕はもちろんみなさんも、実にうまく使ってしまっている。そのために、いろんなことが起きている。

それを書いてゆきます。





今夜は予定投稿という機能を使ってみました。
基本ライブでいきたいのですが、なんかの折に使えそうなので、実験です。
これがアップされる頃には、爆睡中です。 (^O^)

現在10時過ぎ、例によって口の中にはごま油。15分たって、塩水でうがいをしてから、晩御飯です。

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例えば、特にこれといった病気を抱えているわけではない、まぁ不定愁訴があるぐらいの状況だとしましょう。
この状況で、例えば生活習慣病を予防するために、運動をする、食生活に気を付ける、サプリを飲む、怪しい霊能治療を受ける。これらは、悪いことではありません。でも、良いことかどうか、わかりません。

微妙な書き方をしているのは何故かというと、それこそ何にフォーカスするかによって、悪いことにもなるし、良いことにもなる。
生活習慣病が怖くて、病気になるのを恐れて、何かをする。そのとき、フォーカスは「生活習慣病」や「病気」に向かっています。そうすると、自分自身を含め、自分をとりまく環境が、「自分が生活習慣病になる」方向へ動き出すのです。

そうならないためには、「健康」にフォーカスすればよい。運動をするのは、食生活に気をつけるのは、「元気でバリバリ活動している自分」「疲れ知らずで、パワーにあふれている自分」になるため。
この違い、実は相当に大きそうです。(僕自身、もう少し実践を積めば、ここは「大きいです。」と書くところです。)

でもね、どっぷり疲れているときや、嫌なことがあって落ち込んでいるときに、「元気でバリバリ活動している自分」「疲れ知らずで、パワーにあふれている自分」にフォーカスするのって、できたとしても空々しいし、できないことも多いのではないですか? (僕もできないときがあります。)

実はこのシリーズ、結末を考えずに書き始めています。
いつまでかかるかわからない、たぶん結構長い間、ああじゃこうじゃと書き続ける感じになるのかな。途中で「なんか最初ゆうてたことと、話変わっとるやん。」って展開もあり得ます。

ですが、今の時点でひとつだけ言えること。
それは、「感謝」にフォーカスすることが、どんな場合にでも使える、そしていろいろ考えなくてもいいという意味で、いちばんお手軽な方法なのではないかということ。

ですから、僕はまず、日々の生活の「通奏低音」として、これを続けてゆきます。


みなさんに愛と光を!( もりおん )

今夜は、得たいものにしっかりフォーカスが合って、自分の夢や希望がかなってゆく途上で、起こる現象について書きます。

特に日本人(当然僕も含めて)は、これで損をしてきた方、今も損をしている方が非常に多いと思うので。

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夢や希望に向けて、自分自身やまわりの環境に、少しずつ反応が出始めたころ、まわりの人たちが気付いてそれを指摘してくれることがありますよね。

その時に「いや、そんなことないです。」とか「いやいや、まだまだです。」とか、日本人の美徳である「謙遜」という反応が出てしまいがちです。これ、行き過ぎると、指摘もされていないのに、自分で勝手に「こんな自分にこんな素晴らしいことが起こっていいのだろうか?」とか、やってしまう場合もあります。

その時点で、得たいものからフォーカスがそれてしまいます。夢や希望がかなう方向と真逆の方向へ進んでしまうのです。

じゃぁ胸張って、「すごいでしょ!」とか言うのも、心理的な抵抗がある。(抵抗がなければそれも良いと思いますよ。)

で、この場合にも「感謝」が有効です。「おかげさまで!」って言っておけばいい。そしてその時に、「こんな私でも・・・。」とか、自分を卑下したりする、余計な言葉を付け加えないことが重要。

しっかりフォーカスできたんだから(これ、なかなか難しいですし、)胸張って、つまり自分に誇りをもって、でも「おかげさまで。」と心から自然に感謝ができれば、より一層感謝できることも、やってくる。

それと、これは受け売りですが、「感謝も訓練です」というのがあって。
最初のうちは、心がこもらなくても、心からの感謝でなくてもええんです。繰り返し繰り返しやっていくうちに、自然と感謝の気持ちが湧き上がってくる。これは僕も経験しましたから、受け売りだけど、自信をもって書けます。「心に感謝する筋肉を育てよう。毎日しっかり筋トレしよう。」てな感じかな。


みなさんに愛と光を!( もりおん )


ん~。
さっきから、ごま油くちゅくちゅしながら、思案しておりました。
これを、どのカテゴリーで書いたらいいのか。

実はこんな些細な思案の中にも、「戒律」は潜んでいるのです。
そしてこの「戒律」たちが、「他人(ひと)を裁く」のです。
もちろん、最大の犠牲者は、この愛おしい自分です。

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例えばある休日のお昼に、知人とファミレスに入ったとします。
結構混んでいるのに、スタッフが充分でない状況です。

「ん~、数分たってんねんけど、まだ水も来てへんやん。」
(サービス業は、忙しくても、注意を行き届かせて、客を満足させなければいけない)という戒律

「だいたいなぁ、こうなることぐらいわかってんねんから、ちゃんとスタッフ配置しときぃや。人件費けちってんのとちゃうか?」
(経営者は人件費をけちるべからず。従業員にも負担をかけるし、客の心象も害する)という戒律

心の中の声「こんな状況やから、食事にありつけるまで、楽しく話がしたいねんけど、さっきからこの人(知人)、お腹すいて機嫌悪いんか、話にのってけぇへんよな。」
(一緒に食事に来ているときには、機嫌よくいるべきだ)という戒律

ほんの数分の間に、3つもご登場されましたね。<汗>

「〇〇は△△であるべきだ。」という形で書けるものは、ほとんどが「戒律」になると思われます。

僕の中にも、かなり減ったとはいえ、まだまだ「〇〇は△△であるべきだ。」がい~っぱいあります。

なんでこれを「フォーカス」のシリーズで書いているかと言えば、自分の中の「戒律」を持ち出してきて、他人を裁くとき、当然のことながらフォーカスしているものがあるからです。

「『〇〇は△△であるべき』なのに、そうではない」にフォーカスがあたって、そこに怒りのエネルギー(パワー最強っすよ)が注がれると、近い将来「『〇〇は△△であるべき』なのに、そうではない」という現象が、身の回りで起きます。それもほんのりパワーアップして。

そんなわけで、自分の中の「〇〇は△△であるべきだ。」くんと、ちゃんとお話をして、「もう充分役に立ったよ。ありがとう。」って言って、消えていただきましょう。

そうそう、ゆめゆめ、「自分の中の『戒律』は、減らしてゆくべきだ。」という戒律を作らないように、お気をつけください。


みなさんに愛と光を!( もりおん )


(4)の6行目に、『もちろん、最大の犠牲者は、この愛おしい自分です。』と書きました。

これだけでご理解いただける方が多いかと思いますが、念のため。

というか、自分のためにも、書いておいた方がいいかと。

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潜在意識は守護を、ちゃうわ<汗>、主語を理解しないってやつですね。
ほんと、どうやって調べたのか知りたいもんですが、脳科学の通説になっています。

「通説を疑う」ことも必要かと思いますが、僕はこれを信じているので、疑いません。

補足、ですから、あんまり引き延ばすのもなんなので、結論です。

「他人(ひと)を批判した場合でも、潜在意識は自分が批判されていると思う。」


長い間、いじめてごめんね。
最近だいぶ減ったとはいえ、まだいじめてるよね。ごめんなさい。


みなさんに愛と光を!( もりおん )

今日は「罪悪感」について書きます。
誰にでも「罪悪感」はありますが、ひとそれぞれに「罪悪感」を強く感じる分野は違うものですね。

例えば、厳格に育てられた人は、羽目を外す(楽しい時を過ごす)ことや、自由に恋愛をすることに、「罪悪感」を感じまくるかもしれません。

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で、僕の場合は、大きく2つの分野があるのですが、そのひとつがお金に関する「罪悪感」でした。

でした、と書けるようになったのは、すごくありがたいことです。

そもそも、20代~30代前半は、まわりよりも高給取りでしたし、飲み歩いて散財もしました。その当時はほとんど「罪悪感」を感じたことはなかったのです。
そのおかげもあって、独立して自分のビジネスを立ち上げましたが、自分でやり始めてから、少しずつ、罪悪感を感じるようになってゆきました。

「いい人」を演じたかったのですね。異論はあるかもしれませんが、僕は声を大にして言いたいです。

「『いい人』を演じちゃいけません。絶対に!』

必ずといっていいほど、不幸につながります。(何故かは、このシリーズの趣旨から離れるので、またどこかで、書きます。)

昨年からのいろいろな流れで、ありがたいことに「お金に対する罪悪感」は減ってゆきました。
セラピーを受けるなど、心理学的なアプローチも効果があるでしょう。
お金に関する罪悪感を外すための本を読んで、顕在意識を変え、アファメーションを使って潜在意識を変えるのも有効でしょう。(これは少し使いました。)
あとは、エネルギーワークもやりました。(これはかなり使いました。)
でも、結局は、アセンションの流れに後押しをしてもらったのが、一番大きいかな。

標準を100とすると、僕の場合たぶん250ぐらいあった「お金に対する罪悪感」ですが、今はたぶん30ぐらい。我ながらよくぞここまで減りました。

でも、少ないとはいえ、まだ30ほどあります。「これ、どうしたもんかな?」を、ここしばらく頭の中に転がしてあったのですが、昨夜それが見えたように思います。

「お金に関する罪悪感」からフォーカスを外すわけです。
250もあると、なかなか難しいですけれど、30なので、そんなに難しくはありません。
フォーカスした瞬間(マイナス感情を抱くまでの間に)、フォーカスを逸らす。

そのためのマインドセット(という言葉はあまり使いたくないのですが、他に適当なものが見当たらない)も、完成しそうです。

それについては、いずれまた。


みなさんに愛と光を!( もりおん )


「引き寄せの法則」って、願いをかなえる方向で言及されることが多いですが、引き寄せの「誤発注」をやってしまい、とんでもないのがやってくることが、時々ありますよね。

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これがどんな仕組みで起こっているのかですが、ご存じの方は「そうそう」って言いながら読んでいただければと思います。

あることが起こり、エゴが良かれと思って、想定される最悪のシナリオを思い浮かべます。それにフォーカスしてしまって、「うわぁ、どないしょ!」って、ちょっとパニックをおこして、「恐怖」という感情があらわれますと、フォーカスしたものに向けて、すんごいパワーが注がれます。引き寄せたくないものの「誤発注」の仕組みです。

対処法(難しいかもしれませんが、チャレンジすべきですね。だって「誤発注」を防がないと!)は、「心配」レベルでフォーカスを外してしまう。「恐怖」まで発動されてしまったら、腹をくくって、全身全霊フルパワーでフォーカスを外さなければならなくなりますからね。そこまでいっちゃった時も、「誤発注」の品物が来るよりましなので、がんばりましょう!、ですが。

エゴにとってみれば、良かれと思って「非常事態」を防ぐためにアラートを鳴らしているのに、よりにもよって「非常事態」を引き寄せてしまうのはナゼ?
それは、最近引用しまくりですが、 『 銀河連合からのメッセージ 』 によれば、

宇宙は「~したくない」ということを理解できません。すべて「~したい」と理解してしまいます。だから常に「したくない」ではなく「したい」という言葉を使ってください。「したくない」ことがやってくるか、「したいこと」がやってくるかのどちらかです。(訳注:宇宙は "「したくないこと」を 「したい」"と受け取ります)

という仕組みになっていることを、エゴは知らないからなんですね。

あと、手前味噌になりますが、うちの「みなさん」が言ってる よ~く考えてみると、きびしい修行

 「『起こって欲しいこと』だけを考えてくださいね。」ってやつなんですけれど、これを日々実践するのは、なかなかに大変でございます。(うへっ。)

がんばるけどね。 <汗> 


みなさんに愛と光を!( もりおん )

一日の厄を落とすために、湯船につかりましたが、すりむいた両膝も、怪我をした右の手の平も、ぐねった左手首も、痛くて面白かったです。(ちゃんと、身体には謝りますけれどね。)そして、顔面はこわくて洗えなかった。まだまだ恐怖を克服できない、もりおんです。

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ところで、今朝がた、もしかしたら凄いことに気づきました。

今は亡き小林正観さんの本が好きで、一時期よく読んでいたのです。
トイレ掃除を続けると、臨時収入があるよ、の話の中で、臨時収入が来ない人がいるという話。

それは、「臨時収入が入って来なかったとき、ほらやっぱり!と、信じることをやめて批判する人」(うろ覚えなので、表現は微妙に違うと思います。)

これを今風(ってのも変かもしれませんが)に言い直すと、宇宙のしくみを信じきれない人は、宇宙からサポートされにくいよ、ってことのように思います。

例えば、「こうこうこういう奇跡のようなことが起きたら、見えない世界のことを信じるねんけど。」という方がおられます。でも考えてみたら、神(大いなるものでも、表現は何でもいいですが)と取引するって、どうよって思いません?

それは子どもに、「いい子にしてたら、あなたのことを愛してあげる。」って言っている親と同じです。

つまり、「どういう結果になろうとも、宇宙のしくみを信じています」というか、信じるとか信じないとかを超えて、そんなん当たり前やん、になってしまうと、願いが叶いはじめる。

そういうことのように思います。


みなさんに愛と光を!( もりおん )

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